人工美学深掘り編
『Artificial Aesthetics』第5・7・9章をつなぎ、AIによる文化の圧縮、ステレオタイプ化、美的アラインメントの逆説を読む深掘り編。
この記事は、概念編「人工美学」の続編である。著者については概念編を参照してほしいが、Manovichは計算機で文化を分析してきたメディア理論家であり、同時にMidjourneyを日常的に使う作り手でもある。今回は本全体を均等に紹介せず、第5章・第7章・第9章をつなぐ一本の論証──AIによる文化の「圧縮」が何を残し、何を落とすのか──だけを追う。
予測というメディア
Section titled “予測というメディア”出発点は、AI画像を「既存画像の貼り合わせ」と見なさないことにある。生成AIは過去の画像を大量に学習しているのだから、出力はコピーか、せいぜい薄い模倣だろう、という直感は根強い。しかしManovichは、この直感では近代美術そのものが説明できなくなると考える。モダニズムは過去の全否定を掲げたが、実際にはゴッホは日本の版画を、ピカソはアフリカ彫刻を、マレーヴィチはロシア・イコンを読み替えて新しさを作った。過去の蓄積から作ることと、新しいものを作ることは、もともと矛盾しない。
では、AI画像は蓄積から「どのように」作るのか。Manovichは画像制作の歴史を五段階に並べる。手で描く。器具(遠近法装置やカメラ・ルシダ)の補助で描く。写真やX線として機械が記録する。3DCGが光や質感をシミュレーションする。そして生成AIが、データからありうる画像を予測する。「予測」は比喩ではなく、AI研究の論文で実際に使われる技術用語である。テキストを入力すると、モデルはそれに最もよく対応する画像を推定する。記録でもシミュレーションでもなく予測──だからManovichはAI画像を予測メディア(predictive media)と呼ぶ。
この違いは作品を見ると分かる。Refik Anadol Studioの Unsupervised(2022)は、MoMAコレクション数万点で学習したモデルによる生成アニメーションだが、1920年代のフォトモンタージュのように既存画像を切り貼りするのでも、1980年代のポストモダンのように引用するのでもない。作品群から抽出されたパターンの空間──潜在空間(latent space)──の中を移動し続ける。観客が見ているのは、どの絵でもなく、絵と絵の「あいだ」である。
平均値が捨てるもの
Section titled “平均値が捨てるもの”第7章は、この予測の前段にある学習の工程を「圧縮」として捉え直す。Webという文化の巨大な蓄積を扱う技術は、検索(数十億ページを上位結果に縮める)、データ可視化(一枚の図に縮める)、データサイエンス(統計量やクラスタに縮める)と、どれも要約の技術だった。生成AIも学習時にデータを圧縮する点は同じだが、その後に新しいデータ点を生成する点だけが新しい。確率的検索から確率的メディア生成へ、というのがManovichの見立てである。
問題は、機械学習の圧縮が何を捨てるかだ。ここでManovichが持ち出すのは、拍子抜けするほど単純な例──平均値である。数列(1,2,3,4,5,6,7,8)の平均は4。しかし平均4を共有する数列は(0,0,0,2,6,8,8,8)でも何でも、無限に作れる。平均は傾向を伝えるが、個々の数列の具体性を一切保存しない。統計は、その誕生のときから、具体を捨てて傾向を残す技術だった。
面白いのはここからで、Manovichは、統計学と文学の写実主義が同じ19世紀に生まれ、正反対の道を選んだことを指摘する。統計が個別を平均に置き換えたのに対し、バルザックは細部にこそ作品の価値が宿ると宣言し、小説の舞台を実地に調査し、ときに二十ページを場所の描写に費やした。彼の人物は「気高い軍人」「ずるい男」といった社会的類型でありながら、同時に一回きりの具体的な個人でもある。一般と具体、類型と固有の同居──近代の芸術が磨いてきたのは、この二重性だった。ソ連の画家Deinekaの『Textile Workers』(1927)では、工場の機械はほとんど抽象的な幾何学模様に圧縮される一方、労働者の顔だけが不釣り合いなほど個別に描き込まれる。芸術も圧縮するが、何をどれだけ圧縮するかを選べるし、様式ごとに圧縮の仕方そのものを発明できる。
機械学習の圧縮に、この選択の自由はない。頻出する関係・特徴・構造が強く学習され、まれにしか現れない細部や外れ値は弱くしか学ばれないか、そもそも取り込まれない。頻度が価値を決める。Manovichが引くロトマンの言葉を借りれば、全員が同じように話すとき、誰の声も聞こえなくなる──そして詩人とは、最も個人的に話す者のことである。
ステレオタイプの重力
Section titled “ステレオタイプの重力”この圧縮の帰結を、Manovichは理論ではなく自分の手で確かめている。二年間ほぼ毎日AI画像ツールを使った観察によれば、まれなもの・存在しないもの・不慣れなものを生成させると、ツールは二通りの反応をする。品質が崩れるか、あるいは──こちらが厄介なのだが──望んだ内容を、より一般的でクリシェ的な要素に静かに置き換えて、破綻のない画像を返してくる。構図は整い、解剖学も正しい。ただし細部が、頻出パターンの側へ滑っている。この置き換えはしばしば微妙すぎて、注意深く観察するか計算機で定量分析しないと気づけない。
具体例が痛切である。Manovichは自分が1981年に描いたペン画の様式をStable DiffusionやMidjourneyに再現させようとしたが、うまくいかなかった。出てくるのは、彼がよく描くものより一般的な物体か、曖昧なだけで面白くない画像である。彼自身が認める通り、その画風は完全に唯一というわけではない。ただ「まれ」であり、まれであるがゆえに予測不可能であり、予測不可能なものを予測メディアは作れない。Caspar David Friedrich風に「朽ちる芍薬」を描かせる実験でも、冷たい色彩と劇的な雰囲気は再現されるが、線の質、細部の描き方、構図は実際のFriedrichから離れ、頼んでいない汎用的な岩山が画面に紛れ込む。
さらに、この観察は「様式」という概念自体を揺さぶる。AIツールは一見、主題(subject)と様式(style)を自在に分離できるように見える。同じ主題を「マレーヴィチ風」にも「ボス風」にも描けるからだ。しかし写真家148人の名前を同じプロンプトに順に差し替えた実験では、名前を変えると画風だけでなく画像の内容まで変わることがあった。その写真家の代表作に特有の人物や、活動した時代の風物が、頼んでいないのに画面に入り込む。モデルが学習しているのは純粋な「様式」ではなく、ある作家の視覚的特徴とその作家が描いてきた内容との連合である。様式と内容は、少なくとも一部の作家においては、切り離せないものとして学習されている──長く議論されてきた形式と内容の二分法に、使用経験の側から疑問符がつく。
好みに合わせることの逆説
Section titled “好みに合わせることの逆説”ここまでは生成の話だった。第9章でArielliは、問題を評価の側に移す。出力が平凡に寄るなら、人間の好みをもっと正確に学習させて調整すればよい──そう考えたくなる。これが美的アラインメント(aesthetic alignment)の発想である。実際、人間の評価データから画像の美的価値を予測するシステム(Everypixel、GoogleのNIMA、25万枚超の評価済み画像を集めたAVAデータセットなど)は既に動いている。
しかしArielliは、この道の先に落とし穴を二つ置く。第一に、美的判断には機械学習でいうground truth──正解データ──が存在しない。好みは個人・文化・時代で変わり、同じ人でも人生の局面で変わる。しかも人間の美的判断は「何が悪趣味(キッチュ)か」という否定形でも作動しており、その判定は社会的な区別の欲望と絡む。夕日の写真、都市のパノラマ、眠る赤ん坊のモノクロ写真は、知覚的には快いが、多くの人が同時にクリシェだと判定する。快さと価値は一致しない。だから平均的な好みに合わせて生成すれば、最初は心地よく、やがて退屈な「人工キッチュ」に行き着く。興味深い芸術はしばしば、平均的期待の違反から生まれるからだ。Arielliの表現を借りれば、AI画像ツールの初期値はすでにキッチュの側にあり、そこから自分の視像へ「脱出速度」を出せるかどうかが使い手に問われている。
第二の落とし穴は逆方向にある。平均がだめなら個人に合わせればよいかというと、徹底した個人化はhyper-personalizationに行き着き、各人が自分の好みだけを養殖される美的エコーチェンバーを作りかねない。美的経験は個人の快楽であると同時に、共有される文化を作る営みでもある。過剰な個別最適はその共有の基盤を削る。平均に合わせれば同質化し、個人に合わせれば断片化する。アラインメントは単純な最適化問題ではない、というのが第9章の核心である。
共食いする文化
Section titled “共食いする文化”最後に、この圧縮と平均化が自己増殖する回路がある。AI生成物がWebに蓄積され、次世代モデルの学習データに混入する。人間の芸術史から学んだAIの絵を、さらにAIが学ぶ。この自己参照ループはAIカニバリズムと呼ばれ、劣化の過程は近親婚を重ねた王家にちなんでハプスブルクAIと揶揄される。データの「近親化」は多様性・独創性・品質を徐々に失わせる可能性がある、と研究は警告する。
規模の感覚も添えておく。2023年8月時点でtext-to-imageによる生成画像は150億点を超えた。これは1826年の最初の写真から1975年までの150年間に人類が撮った写真の総量に匹敵する。SoundCloudには2024年半ばで3億5000万曲があり、2023年には毎日12万曲以上がストリーミングサービスに追加されていた。AI以前から、文化の生産は消費可能な量を超えている。生成が容易になれば供給はさらに膨らみ、人間の注意はそれを処理できないから、評価と選別もAIに委ねる圧力が強まる。作るのもAI、選ぶのもAI──人間は機械同士の対話の仲介者になりかねない、とArielliは書く。
忘却の生態系
Section titled “忘却の生態系”ただし本書は、この圧縮を単純な破局として描いてはいない。第7章にManovichらしい挿話がある。文化の歴史はもともと、ゆっくりした忘却と、統計的にほぼ不可能なまれな記憶からできている。ある時代に注目を集めた芸術家の大半は記録から消え、残った少数も数点の代表作に還元される。歴史の圧縮は残酷で容赦がない。そこに彼はこんな情景を置く──観光客が四年間来なかった小さな町の美術館の一枚の絵が、地元の高校生が週末に撮った自撮りの背景に写り込んだおかげで、ニューラルネットの学習データに入る。同じ部屋の他の絵は、フレームの外にあったというだけで、どのネットワークにも学ばれない。
偶然に支配された、偏った、断片的な記憶。しかしManovichは、これでも印刷文化や人間の記憶より「わずかに残酷でない」忘却だと言う。AIは文化を丸ごと保存する書庫ではなく、何が残り何が消えるかを頻度と偶然が決める、新しい忘却の生態系である。博物学が標本にできたものだけを分類し、採集されなかったものが命名されずに消えていったのと、構造はよく似ている。分類にも学習にも、その網の目からこぼれるものが必ずあり、こぼれたものは次の世代にとって最初から存在しなかったことになる。南方熊楠が「後考を俟つ」と書いて未決のまま残した事例のように、網にかからなかったものの居場所を記録の中にどう確保するかは、AI以前からの、しかしAIによって規模が変わった問いだと思う。
モグラになれ
Section titled “モグラになれ”では、頻出パターンの重力の中で、作り手はどうするのか。第7章の末尾に置かれた「若い芸術家への手紙」は、本書で最も個人的な文章である。Manovichはまず自分の限界を数え上げる。私は何百人もの画家の様式で描き分けられないし、Webに分散した壁のない巨大美術館の知識も持たない。AIは持っている。「私にはできないが、AIにはできる」の例は無限に挙がる。ではなぜ今も作るのか。
彼の答えは反転している。人間の芸術を人間的にするのは、意図でも計画でも意味でもない──それらはAIが完璧に模倣できるし、そもそもモダニズムの百年はそれらを作品から追放しようとしてきた。残るのは限界だけである。すぐには変われないこと、癖、歩き方、執着。だから彼は勧める。限界を治療せず、育てよ。「創造的」であろうとするな。可能性の広大な表面に薄く広がるのではなく、一点に集中して掘れるだけ深く掘れ。ピカソではなくモランディのように考えよ。AIの知識と技能は広大だから、対抗できるのはAIが届かないほど狭い場所──針の穴の先だけだ。芸術家はモグラにならねばならない、と彼は書く。カフカの『巣穴』の住人のように、いつAIの進歩に発見され、掘った通路ごと消されるか分からない不安の中で、それでも掘り続けること。その不安こそが、最後に本物を作らせるのかもしれない、と。
これは精神論に見えて、実は本書の理論から導かれる実践論である。予測メディアは頻出を学び、まれなものを作れない。ならば、まれであり続けることが、統計的圧縮の外側に立つ唯一の方法になる。圧縮論の帰結が「狭く、深く、固有であれ」という助言に着地する──この一貫性が、第5・7・9章を一本の論証として読む価値だと思う。
理論として残るのは、AIが文化を保存するのではなく、頻出パターンを残し希少な細部を落とす圧縮として働く、という見方である。これはモデルの世代交代では消えない構造的な指摘に見える。一方、未解決の問いも本書ははっきり残している。圧縮の偏りは今後の技術でどこまで緩和されるのか。美的アラインメントは、同質化でも断片化でもなく、多様性を支える形で設計できるのか。AIカニバリズムやhyper-personalizationは2021〜2024年時点の観察に基づく予測であり、理論的な問題設定とは区別して、現在の状況で再検証する必要がある。
この記事の作り方
Section titled “この記事の作り方”概念編のために作った章別読解ノートを土台に、原文PDFの第5章(pp.71–94)、第7章(pp.119–144)、第9章(pp.170–193)、および第1章の一部を直接読み直し、論証の展開順・概念・事例を原文と照合して執筆した。引用に相当する箇所はすべて一文以内の拙訳による要約的引用とし、長い直接引用は行っていない。図版は転載せず、内容のみ文章で説明した。
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