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エサレン研究所の60年カウンターカルチャーに何を渡し、その後どこへ流れたか

1962年にビッグサーの温泉地で始まったエサレン研究所が、心理学・身体技法・東洋思想・変性意識研究をどのように一つの滞在体験へ翻訳し、そこで誰と誰を引き合わせたかを追うノート。

1967年9月、『TIME』はカリフォルニア州ビッグサーの小さな研究所を「School for the Senses」と題して紹介した。紙を握りつぶす感覚を身体で追体験し、経営者たちが目隠しをして互いを導き、エンカウンター・グループでは感情を言葉だけでなく身体で表現する。同年12月には『New York Times Magazine』が長いルポを、翌1968年には『LIFE』が大きな写真記事を組んだ。エサレン研究所は、この時期の報道によって全米に知られていく。1

奇妙なのは、そこに集まっていたのが物見高い若者だけではなかったことだ。心理学者、精神科医、人類学者、宗教学者、身体技法の実践者が、同じ食堂で食事をし、同じ温泉に浸かっていた。

なぜ大学でも学会でも病院でもなく、断崖の温泉だったのか。

エサレンの60年を追うと、その影響は「何を発明したか」より、別々に存在していた思想や技法を、どう一つの体験へ翻訳し、外へ流通させたかによく現れる。

断崖の上に低層の建物群と芝生が並び、崖の縁にプールがある。上方に海沿いの道路が走り、崖下は太平洋。 1972年5月の空撮。崖の上に宿舎と芝生、崖際にプールが並ぶ。撮影: Dick Rowan(米国環境保護庁のDOCUMERICA計画) / 出典: Wikimedia Commons(米国国立公文書記録管理局所蔵) / ライセンス: パブリックドメイン / 変更なし。撮影地がエサレンであることは、NARAの原題ではなくCommons側の同定注記による。

1. なぜ、この場所が必要だったのか

Section titled “1. なぜ、この場所が必要だったのか”

エサレン研究所は1962年、ともに1930年生まれのマイケル・マーフィーとリチャード(ディック)・プライスが、マーフィー家の所有するビッグサーの温泉地で始めた。まだBig Sur Hot Springsと呼ばれていたころ、後に『ラスベガスをやっつけろ』を書くハンター・S・トンプソンが短期間、温泉の警備員をしていたという記録も残っている。

創設者二人がここに求めたものは、少し違っていた。

マーフィーはスタンフォード大学で比較宗教に触れ、卒業後インドのシュリ・オーロビンド・アシュラムで約一年半を過ごした。関心は、人間の発達にはまだ未知の余地があるのではないかという問いに向き、マズローの自己実現やピーク体験という語彙とも早い段階で接続している。

プライスの動機は、既存の精神医療への不信と結びついていた。空軍在籍中の精神的危機の後、家族によって私立施設へ入れられ、本人の意思に反して約一年間、電気けいれん療法とインスリン・ショック療法を受けている。彼はその体験を治療されるべき病理とは捉えず、退院後、心理的な危機を本人の経験を無視せずに扱える場所を求めるようになった。

二人はサンフランシスコの共同住宅で出会い、1961年から温泉地でプログラムを始める。プライスの回想によれば、ごく初期の講師の一人がアラン・ワッツで、自分のメーリングリストから参加者を集めていた。

ここで形成された方針を、プライスは後に「どのアプローチにも旗を取らせない」と表現している。2

大学のように一つの専門分野へ閉じず、教会のように教義への同意を求めず、病院のように参加者を患者として扱わない。この設計が、エサレンを「新しい学説を作る研究所」より、異質なものを一度同じ場所へ入れる実験場にした。

ただし、この場所の歴史は1962年から始まるわけではない。現在のキャンパスはEsselen Tribe of Monterey Countyが祖先の土地とする地域にあり、温泉も長く利用されてきた。研究所名そのものもこの土地の先住民名に由来する。エサレンは現在、同部族との関係修復や土地の共同管理を掲げている。

初期のエサレンは、講師が次の講師を連れてくる人脈で膨らんだ。

英国生まれの著述家アラン・ワッツ(当時47歳)は1962年の創設期から教え、禅や道教を英語圏の聴衆へ翻訳していた。彼を経由して、センサリー・アウェアネス(感覚覚醒)のシャーロット・セルヴァーや、太極拳のChungliang Al Huangらもエサレンと接続していく。

角帽とガウンを着た若い男性の白黒の肖像写真。 1958年、バーモント大学から比較宗教の業績に対して名誉博士号を受けたときのアラン・ワッツ。出典: University of Vermont Alumni Magazine 第39巻1号(UVM Digital Collections経由、Wikimedia Commons) / ライセンス: パブリックドメイン(米国で著作権が更新されなかった著作物) / 変更なし。

1964年にはフリッツ・パールズ(ゲシュタルト療法の共同創始者、当時70〜71歳)が来訪し、1969年まで拠点にした。彼の方法が重視したのは過去の原因の説明ではなく、いま身体と関係のあいだに何が起きているかをその場で扱うことである。後に威圧的だったという批判も残る。

アイダ・ロルフは構造的統合を、モーシェ・フェルデンクライスは動きを通じた学習を持ち込んだ。エサレンの身体実践は一つの流派へ統一されず、マッサージ、感覚訓練、姿勢、呼吸、心理療法が互いを参照する環境になった。エサレン自身も、エサレン・マッサージを1960年代末に複数の実践者が共同で形作ったものと説明している。

1967年前後にはウィル・シュッツ(当時41歳)が居住型プログラムを率い、エンカウンター・グループをエサレンの代名詞にする。1973年にはスタニスラフ・グロフ(LSDを用いた精神療法研究で知られる精神科医、当時41〜42歳)がScholar-in-Residenceとして移り住み、クリスティーナ・グロフとともに、薬物を使わずに非日常的な意識状態を誘発するHolotropic Breathwork(ホロトロピック・ブレスワーク)を発展させた。晩年のグレゴリー・ベイトソン(人類学者、システム論の思想家)も、60代後半から70代にかけて長期滞在している。

こう並べると20世紀思想の人名録に見えるが、起きたことは人名より、別々の方法が同じ台所と同じ温泉を共有したことにある。ロルフの身体観とゲシュタルトの感情作業、セルヴァーの感覚訓練と東洋の瞑想、サイケデリック研究と呼吸法が、同じ参加者や実践者を介して行き来した。エサレンが「ソマティクス」やトランスパーソナル心理学を単独で発明したわけではない。それらが形成される時期に、心理、身体、宗教、変性意識を同じ会話に載せられる場所を提供した。

そして最も広く複製されたのは、個別の技法より形式だったのかもしれない。数日から数週間、日常から離れ、寝食を共にし、講義と身体実践と対話を組み合わせる。「滞在そのもの」を学習装置にする形式である。

3. エサレンから社会へ何が流れたか

Section titled “3. エサレンから社会へ何が流れたか”
分野エサレンで起きたことその後に見える接続
心理学人間性心理学、ゲシュタルト療法、エンカウンター、トランスパーソナル心理学の実践者が交流身体感覚、感情、関係性を扱う心理療法やグループ実践
身体技法構造的統合、フェルデンクライス、感覚覚醒、マッサージが同じ場で発展ボディワーク、ソマティクス、身体志向の心理支援
変性意識サイケデリック研究者が滞在し、非薬物的な呼吸法も開発ブレスワーク、トランスパーソナル心理学、現在のサイケデリック統合文化
霊性禅、ヨガ、インド思想、心理学を宗派への所属なしに組み合わせた「宗教には属さないがスピリチュアル」というリトリート文化
組織と企業エンカウンター、感受性訓練、自己実現の語彙が経営者にも提供された組織開発、コーチング、リーダーシップ研修との接続
政治・外交1980年代に米ソの研究者・文化人・市民を継続的に接触させたTrack Two diplomacy(トラック2外交、非政府間外交)

最後の行は、心理療法の施設の歴史としては唐突に見える。

1980年代、マイケル・マーフィーとドルシー・マーフィー、ジム・ヒックマンらはSoviet-American Exchange Programを進め、政府の公式交渉とは別に、米ソの市民、研究者、芸術家を接触させた。温泉で話し合うこともあったため、当時「hot tub diplomacy」と呼ばれた。1989年9月には、ボリス・エリツィンの初訪米をエサレン側のネットワークが支援している。エサレンの現在のAboutページには1990年と記されているが、同研究所の2020年の回顧記事と当時の米紙報道は1989年としており、こちらが訪米時期と一致する。

なぜ温泉施設が外交まで始めたのか。

エサレンが繰り返し使ってきた方法を、そのまま外交へ移したと考えると分かりやすい。正統を決める前に、異なる立場の人間を同じ場所へ集め、国家代表としてではなく個人として話せる関係を作る。心理療法や宗教対話の形式が、冷戦下の市民外交へ転用された。

ただし、現在の企業研修やウェルネス産業のすべてを「エサレン発」とするのは無理がある。感受性訓練にはNational Training Laboratoriesなど別の系譜があり、瞑想やヨガにも当然それぞれ長い歴史がある。エサレンの影響を考えるときは、直接の継承と、同じ時代に形成された思想的な親族関係を分けた方がよい。

4. 誰と誰が、そこで同じ時間を過ごしたのか

Section titled “4. 誰と誰が、そこで同じ時間を過ごしたのか”

エサレンの影響は、講師が持ち込んだ方法だけでは測れない。普段なら別々の制度にいる人間が、同じ数日間を共有したことそのものが、この施設の産物だった。

芝生では、ロックフェスが開かれていた

Section titled “芝生では、ロックフェスが開かれていた”

エサレン自身の記録によれば、この敷地では1964年からBig Sur Folk Festivalが開かれていた。きっかけは、ここで働いていたナンシー・カーレンが、友人のジョーン・バエズに音楽のワークショップを頼んだことである。他の音楽家を招くうちにフェスティバルになり、1971年まで続いた。バエズは全7回すべてに出演している。2

最も知られる1969年9月の回には、バエズ、ジョニ・ミッチェル、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングらが出演した。演奏者はプールの片側、参加者は反対側の芝生。この回は『Celebration at Big Sur』として映画になっている。ウッドストックの約1か月後だった。

その前年の1968年には、ジョージ・ハリスンとリンゴ・スターがヘリコプターで降りている。Artist-in-Residenceとして滞在していたラヴィ・シャンカル、そしてアラン・ワッツと同席し、ワッツが話し、彼らが演奏したという。

つまり、心理学者がエンカウンター・グループをやっていたのと同じ芝生で、数千人規模のフォークフェスティバルが開かれていた。

長い黒髪の若い女性の白黒の肖像写真。屋外で、やや上を向いて笑っている。 1966年のジョーン・バエズ。エサレンの音楽祭を始めるきっかけになった人物で、全7回すべてに出演した。撮影: Ron Kroon / Anefo(オランダ国立公文書館)/ 出典: Wikimedia Commons / ライセンス: CC BY-SA 3.0 / 変更: 元画像をトリミングした版を使用。撮影地はエサレンではない。

神話学者ジョセフ・キャンベルも、1965年に初めて講義してから1987年に亡くなるまでほぼ毎年訪れた。『千の顔をもつ英雄』は1949年の出版であり、英雄の旅という考えがエサレンから生まれたわけではない。変わったのは伝え方である。キャンベルは後に、太極拳のChungliang Al Huangと長年の共同プログラムを開いた。神話を語る人と身体を動かす人が組み、書物の中の比較神話学が、滞在と身体実践を伴うものへ変わる。

心理学でも宗教でもない方向から来た人物もいる。医師で神経科学者のジョン・C・リリーである。

リリーは1954年に隔離タンクを作った人物として知られる。暗く遮音した水槽に濃い塩水を満たし、外部刺激をほぼ断つ。並行してバンドウイルカの発声を研究し、種を越えた対話の可能性を探っていた。研究史家チャーリー・ウィリアムズによれば、リリーは1969年から1972年にかけてエサレンに滞在している。エサレン自身のアーカイブにも、1971年の「John Lilly and the Quest for Satori(ジョン・リリーと悟りの探求)」という記録が残る。

神経生理学者がイルカと隔離タンクの研究をしながら、その到達点を「悟り」という禅の語彙で語る。リリーの後年の主張には検証の難しいものが増えるが、1970年前後のエサレンには、実験室の装置、動物とのコミュニケーション研究、薬物、東洋の悟り論が、同じ人物の中で地続きになっている状態があった。

そして、ある人物の会議が次の人物の出発点になる。

屋外の壇上でマイクの前に座り、手を上げて話す男性。眼鏡をかけ、椅子に浅く腰かけている。 1999年11月のテレンス・マッケナ。翌2000年に亡くなった。撮影: Jon Hanna / 出典: Wikimedia Commons / ライセンス: CC BY-SA 3.0 / 変更なし。撮影地はエサレンではない。

1982年12月、エサレンでリリーと物理学者アミット・ゴスワミによる「意識と量子物理学」の会議が開かれた。そこで初めて壇上に立ったのが、36歳のテレンス・マッケナである。彼は2000年に亡くなるまでの約18年間で、エサレンで100回近く講義することになる。カオス理論の数学者ラルフ・エイブラハム、生物学者ルパート・シェルドレイクとの継続的な鼎談も、ここで行われた。同じ1980年代、ラム・ダスも常連で、1987年10月の講義「The Compassionate Heart」がアーカイブに残っている。

隔離タンク、幻覚剤、禅、意識の量子論。方法も分野もばらばらだが、問いは近い。普段とは違う意識の状態に入ったとき、人には何が起きるのか。

禅は、創設前からすぐ近くにいた

Section titled “禅は、創設前からすぐ近くにいた”

第1節の「サンフランシスコの共同住宅」には続きがある。マーフィーとプライスが親しくなったEast-West Houseは、エサレン公式史によれば鈴木俊隆の弟子たちが作った家だった。鈴木は1959年に渡米し、1962年にSan Francisco Zen Centerを開いた曹洞宗の僧侶である。エサレンを作る二人の生活圏のすぐ隣に、日本から来た禅の共同体があった。

グロフの回想によれば、1970年代半ばには「Buddhism and Western Psychology(仏教と西洋心理学)」をテーマに約6週間の集中プログラムが行われた。ジャック・コーンフィールド、ジョーン・ハリファックスら西洋側の実践者と、韓国禅の崇山、チベット仏教のチョギャム・トゥルンパ、日本の曹洞宗僧侶・乙川弘文らが参加している。

この時期を象徴する写真が一枚ある。1975年、崇山と並んで教えている31歳のジョン・カバットジンである。3彼は4年後の1979年、マサチューセッツ大学医療センターにStress Reduction Clinicを設立し、MBSR(マインドフルネスストレス低減法)を開発した。仏教瞑想を、入信を前提としない医療プログラムとして世界へ広げた経路である。

MBSRがエサレンで生まれたことを示す資料はない。カバットジンはMIT時代から禅を学び、複数の伝統から影響を受けている。それでも、後に仏教瞑想を西洋医学へ翻訳する人物が、その4年前にここでアジアの禅僧と一緒に教えていたという事実は残る。

袈裟をまとい、両手を膝の上に置いて坐る僧侶。柔らかい表情でやや斜め前を見ている。 乙川弘文(1938–2002)。永平寺での修行を経て1967年に渡米し、カリフォルニアで曹洞宗の禅を教えた。撮影: Nicolas Schossleitner / 出典: Wikimedia Commons(権利者の許諾記録あり) / ライセンス: CC BY-SA 3.0 / 変更なし。撮影年は記載がない。

その禅僧の一人、乙川弘文(1938年生まれ)は永平寺で修行した後1967年に渡米し、エサレンでは弓道を教えていた。同じ1975年前後、弘文の禅堂へ通い始めた20歳の若者がスティーブ・ジョブズだった。ジョブズが永平寺で修行したいと話したとき、弘文はシリコンバレーに残るよう勧め、1991年にはジョブズとローレン・パウエルの結婚式を執り行っている。3

もちろん「エサレンがAppleを生んだ」とは書けない。ただ、1970年代の北カリフォルニアでは、エサレンも、日本から来た禅僧も、初期のシリコンバレーも、同じ人間の移動範囲に収まっていた。

この往復には続きもある。Esalen Massageの公式登録プラクティショナーである中川玲子は、25年以上エサレン・マッサージに関わり、2011年に兵庫県でNPO法人タッチケア支援センターを設立した。エサレンのタッチをもとに、看護、福祉、災害支援、高齢者施設などへ応用している。1960年代に禅や身体技法がカリフォルニアへ運ばれて西洋心理学と混ざり、数十年後、その混ざった技法の一つが日本へ戻ってケアの現場で翻訳し直された。

知識は往復するたびに、少し違うものになっている。

ただし、この名簿の作られ方には偏りがある

Section titled “ただし、この名簿の作られ方には偏りがある”

社会学者マリオン・ゴールドマンは、エサレンの初期史が男性創設者と男性指導者を中心に語られてきたことを分析し、「spiritual privilege(霊的特権)」という概念から、経済的・社会的資源を持つ人ほど主流の生活から一度離れ、自己変容に時間を使いやすい構造を論じている。さらに、禅やインド思想などから実践だけを取り出し、宗教共同体や歴史的背景から切り離して「個人の成長」に組み替える方法にも批判がある。

ここでは「良い面」と「悪い面」が別々に存在したわけではない。

短期間に強い体験を起こせること、流派を越えて方法を自由に組み替えられること、日常の制度から離れられること。エサレンを魅力的にした設計そのものが、権力集中、脱文脈化、参加階層の偏りという問題も作った。

5. 翻訳された形式は、次にどこへ渡ったのか

Section titled “5. 翻訳された形式は、次にどこへ渡ったのか”

エサレンが独自に発明した技法は、世間で想像されるほど多くない。

黒板の前に座る年配の男性。黒板には「INCLUSION CONTROL OPENNESS」という見出しと、人物を表す棒線画の図が書かれている。 1987年ごろ、エサレンでのセッション。黒板には、ウィル・シュッツが使ったInclusion/Control/Opennessの枠組みと、そこから派生する4つの役割(DEMANDER、CRITIC、VICTIM、HELPER)が書かれている。撮影・提供: The Schutz Company / 出典: Wikimedia Commons / ライセンス: CC BY-SA 3.0 / 変更なし。撮影場所と年は投稿者の説明による。

心理学、東洋思想、身体技法、変性意識研究は、それぞれ別の場所ですでに進んでいた。エサレンが得意だったのは発明より翻訳である。学問をワークショップへ、宗教実践を宗派に属さない体験へ、心理療法を健康な人の自己探究へ、身体技法を「心の変化」と同じ言葉で語れるものへ変換し、参加者や講師がそれを別の都市、組織、治療室、スタジオへ持ち帰った。

そのため現在、施設名が残っていない場所にまで似た形式が見つかる。ただし直接の系譜として証明できるとは限らない。エサレンが普及させた「異なる技法を組み合わせ、滞在型の体験として提供する」器が、現代のリトリートやウェルネス文化とよく似ている、と見る方が正確だろう。

そして、この形式が次に強く接続したのが、シリコンバレーだった。

悪魔の代弁者

エサレンが社会へ広めたのは、人間を制度から解放する方法だったのか。それとも、宗教、心理療法、身体技法を、個人が購入できる「変容の体験」へ変換する方法だったのか。

60年の歴史を見る限り、この二つは完全には分かれなかった。

付記: 誰が、何歳でビッグサーに来たのか

Section titled “付記: 誰が、何歳でビッグサーに来たのか”

冒頭で触れた通り、ここに集まっていたのは若者だけではなかった。温泉地を引き継いだ二人は30代前半、呼び寄せた講師は40代から70代である。パールズが来たとき、彼は創設者より約37歳年上だった。

人物エサレンとの接点そのときの年齢
マイケル・マーフィー
共同創設者
1962年の創設推定32歳
リチャード(ディック)・プライス
共同創設者
1962年の創設推定32歳
ハンター・S・トンプソン
作家
Big Sur Hot Springs時代の警備員(1961年ごろ)推定24歳
アラン・ワッツ
東洋思想の著述家
1962年の創設期から講師47歳
シャーロット・セルヴァー
センサリー・アウェアネスの指導者
1960年代前半からの滞在講師推定60代前半
フリッツ・パールズ
ゲシュタルト療法の共同創始者
1964年から1969年まで拠点にする推定71歳
アイダ・ロルフ
構造的統合(ロルフィング)の創始者
1960年代半ばに構造的統合を持ち込む推定60代後半
ウィル・シュッツ
心理学者
1967年前後に居住型プログラムを率いる41歳
モーシェ・フェルデンクライス
物理学者、身体教育の創始者
1970年代に動きを通じた学習を指導推定60代後半〜70代
グレゴリー・ベイトソン
人類学者、システム論の思想家
1970年代の長期滞在推定60代後半〜70代
スタニスラフ・グロフ
精神科医
1973年にScholar-in-Residenceとして移住推定42歳

年齢は生年と出来事の年の差から出した概算で、誕生日の前後で1歳ずれることがある。滞在時期を年単位で確認できなかった人物(太極拳のChungliang Al Huangなど)は表に入れていない。

画像は、著作者・出典・ライセンスが確認できたものだけを掲載した。エサレン敷地内で撮影された1960〜80年代の写真は、報道機関や研究所が権利を持つものが多く、再利用条件を確認できなかった。そのため人物写真は、バエズ、マッケナ、乙川弘文のようにエサレン以外の場所で撮られたものを使い、撮影地が異なる点はキャプションに明記した。1969年のBig Sur Folk Festival自体の写真は、報道機関などが権利を持ち、再利用できるものを確認できなかった。敷地内の活動が分かる写真としては、実践者側が自ら公開した1987年ごろの一枚を使っている。

  1. TIME, “Learning: School for the Senses,” September 29, 1967. https://time.com/archive/6834843/learning-school-for-the-senses/

  2. エサレン研究所の公式サイト(Origin Stories、In Memoriam、Music at Esalen)。創設の経緯、初期の講師、敷地での音楽祭についての記述はここに拠る。https://www.esalen.org/in-memoriam/richard-price ; https://www.esalen.org/origin/alan-watts ; https://www.esalen.org/origin/music-at-esalen 2

  3. Lion’s Roar, “Why Jon Kabat-Zinn Brought Mindfulness to the Mainstream”(1975年、EsalenでSeung Sahnと教えるKabat-Zinnの写真)/Kobun Chino Otogawa Archive, “Life”(Esalenでの弓道、Steve Jobsとの交流、1991年の結婚式)。https://www.lionsroar.com/why-jon-kabat-zinn-brought-mindfulness-to-the-mainstream/ ; https://www.kobunchino.org/life/ 2