温泉はどのように「知」の対象になったか古代の記録から近代科学まで
温泉について書かれたものを古い順に並べ、記録の主体と形式が変わるたびに温泉の書かれ方がどう変わったかを追うノート。
温泉について書かれたものを古い順に並べていくと、誰が、何のために、どんな形式で温泉を記録してきたかが、時代ごとに違っていることが見えてくる。
神話の由来譚。天皇の行幸記録。国が命じて作らせた地誌。禅僧の日記。温泉地に掲げられた指南書。医師どうしの論争。西洋化学の翻訳書。行政の分析報告。そして現在は、ユネスコに提出する無形文化遺産の提案書。
同じ「温泉」という対象が、記録の形式を変えながら、繰り返し書き直されてきた。 このノートはその変遷を追う。とくに、湯治が学問・詩・禅宗と結びついていた中世から近世にかけての時期に重心を置いた。
構成は次の通り。
- 古代——温泉は誰の、どんな記録に現れたか
- 中世——禅僧が温泉を書く
- 近世——温泉が批評と論争の対象になる
- 近代——分析と行政
- 全国の名湯——文献に現れる古湯
- 現代——制度化、そして文化遺産化へ
大分県の温泉データや泉質のメカニズムについては、姉妹ノート「大分の湯はなぜ多様なのか」で扱う。
道後温泉本館。『伊予国風土記』逸文が伝える「湯の岡の碑文」の舞台であり、日本三古湯のひとつ。撮影: z tanuki / 出典: Wikimedia Commons / ライセンス: CC BY 3.0 / 変更なし。
1. 古代——温泉は誰の、どんな記録に現れたか
Section titled “1. 古代——温泉は誰の、どんな記録に現れたか”日本の温泉利用は、記録に残るだけで約1300年さかのぼる。ただし「古い書物に温泉が出てくる」という言い方は、かなり大雑把である。書物ごとに、温泉の書かれ方も、登場の頻度も違う。
1-1. 『古事記』にはほとんど出てこない
Section titled “1-1. 『古事記』にはほとんど出てこない”「日本最古の書物」として引き合いに出されがちな『古事記』だが、そこに見える温泉は一例だけである。愛媛県史(文学編)の整理によれば、それは軽太子が「伊余の湯」に流されたという記事のみ。温泉の効能でも由来でもなく、流刑地としての言及である。
このことは、温泉という主題が『古事記』の関心の外にあったことを示している。「古い書物に載っている」という権威づけをする際には、どの書物に、どういう文脈で載っているのかを確認する必要がある。
なお平安時代の古辞書によれば、「温泉」「湯泉」はユと読むのが通例で、イデユの訓もあった。
1-2. 『日本書紀』——行幸の記録として
Section titled “1-2. 『日本書紀』——行幸の記録として”『日本書紀』には、温泉が具体的な年次を伴って登場する。伊予の温泉(現・道後温泉)については次の三つ。
- 舒明天皇の行幸(639年)
- 斉明天皇の行幸(661年)
- 地震のため湯が出なくなった(684年)
このほか有馬温泉(神戸市)と牟婁温泉(和歌山県白浜の湯崎)が見える。
三つ目に注目したい。地震で湧出が止まったという記録は、温泉が地質現象であることを、当時の記録者が事実として観察していたことを示す。効能譚ではなく、出来事の記録としての温泉記述である。
温泉行幸は通常の行幸と異なり長期間にわたっており、現地に滞在して湯治を行う目的だったとされる。斉明天皇4年(658年)には、有間皇子が謀反の嫌疑で「紀温湯」へ護送のうえ尋問され、帰りの途上で処刑されている。温泉地は、政治の舞台でもあった。
上代の中央編纂物における温泉記事は、天皇の行幸に関するものが目立つ。 これは記録の主体が朝廷だったことの反映である。
1-3. 『風土記』——地誌としての温泉
Section titled “1-3. 『風土記』——地誌としての温泉”713年、官命により各国の国情や伝承をまとめさせた『風土記』では、温泉記事が一気に増える。逸文を含めて調査すると、現在の温泉名で次のような分布になる。
| 国 | 現在の温泉 |
|---|---|
| 伊予 | 道後温泉 |
| 出雲 | 玉造温泉、海潮温泉 |
| 豊後 | 九重、別府の鉄輪温泉、血の池地獄 |
| 肥前 | 武雄温泉、嬉野温泉、雲仙 |
| 摂津 | 有馬温泉 |
| 伊豆 | 湯本温泉、熱海伊豆山温泉 |
「命令されて土地の情報を書き出す」という形式が、温泉記述を全国規模に広げた。 中央の関心(行幸)から、地方の実情(何がどこに湧いているか)へ。記録の主体が変わることで、記録される範囲が変わった。
内容も具体的である。『出雲国風土記』では玉造の「出湯」が病をことごとく癒す「神湯」と評され、老若男女がこぞって利用したと記される。『豊後国風土記』の速見郡には、赤湯泉(現・血の池地獄。周囲約45m、湯の色は赤く、泥は家の柱を塗るのに用いられた)と玖倍理湯井(現・鉄輪温泉一帯の間歇泉。人が井の辺で大声を出すと驚いたように鳴って二丈ほど噴き上がった)という描写がある。
『伊予国風土記』逸文には、大穴持命(大国主命)が少彦名命を蘇生させようと、大分の速見の湯(別府温泉)を地下の樋で引いてきて入浴させた、という伝承がある。愛媛県史はこれについて「中央との交流でなく、九州との関係に成る点は注目してよかろう。伊予から西方を向いている伝承は珍しい」と述べている。伝承の向きが、当時の交流の向きを示す資料になりうるという指摘である。
『伊豆国風土記』逸文には、二神が「始めて禁薬と温泉の術を制めたまひき」とある。温泉は「術」として、薬と並ぶ技法のカテゴリーに置かれていた。
1-4. 『万葉集』——左注と題詞のなか
Section titled “1-4. 『万葉集』——左注と題詞のなか”『万葉集』の温泉は、歌そのものより左注や題詞に多く登場し、その大半は『日本書紀』の記事と重なる。伊予・有馬・紀(白浜の湯崎)のほか、次田の温泉(太宰府の二日市温泉)、足柄の温泉(湯河原温泉)が見える。
歌集における温泉記述が『書紀』と重複するという事実は、両者が同じ情報源に依拠していたことを示唆する。 独立した記録が三つあるのではなく、一つの記録が複数の形式に分岐している場合がある——古い文献を数える際に注意すべき点である。
1-5. 「湯の岡の碑文」——最初の温泉論?
Section titled “1-5. 「湯の岡の碑文」——最初の温泉論?”古代の温泉記述で特異なのが、『伊予国風土記』逸文が伝える**湯の岡の碑文(通称・道後温泉碑)**である。法興6年(596年)10月、聖徳太子が高麗僧・恵慈や葛城の臣たちを従えて伊予の温泉を訪れ、碑を立てたとされる。
その内容を要約すると——日月は天上にあって平等に照らし、神の温泉は地下から出て公平に恵みを与える。政治はうまく行われ、人々は安らかに暮らす。それは天寿国(極楽)を見るようだ。人々は神の温泉を浴びて病を癒す。椿樹は茂り、鳥はさえずり、赤い椿の花が葉に照り映え、実は温泉に垂れ下がる。その樹下をゆったりと散策して楽しむ——。
愛媛県史はこの原文を「校訂・訓読・解釈についてもまだ追究を要する難文」とし、中国古代の用語・用字・修辞を踏まえ、神仙思想の文献や漢訳仏典にかなり依拠しているらしいと述べる。温泉を「不老不死の霊泉のある神仙境」として称える美文であり、明確な思想的枠組みのなかで温泉を位置づけた最初期の文章といえる。
ただし史料としては慎重な扱いが必要である。愛媛県史は次の点を挙げている。
- 碑文の本文は『釈日本紀』にしか載らない
- 「法興」は『日本書紀』に用いられない私年号である
- 『伊予国風土記』逸文が伝える五度の行幸のうち、四度目(舒明)・五度目(斉明)は『書紀』と合致するので史実とみてよいが、三度目(聖徳太子)以前は『書紀』に記事がない
- 推古天皇の御世について『書紀』の記事は極めて詳しいのに、太子の伊予行啓を記していないのは不審である
結論として、県史は湯の岡の碑文の記事を「伝承文学の対象として扱うのがよい」とする。さらに、碑文の創作者として法隆寺・元興寺等の学問僧関係者を考えてみてはどうか、という推測も示している。
史実か伝承かの線引きは、複数の文献を突き合わせることではじめて引ける。 この作業自体が、温泉についての「知」の一形態である。
2. 中世——禅僧が温泉を書く
Section titled “2. 中世——禅僧が温泉を書く”古代の温泉記録が朝廷と国家によるものだったのに対し、中世の記録の担い手は変わる。禅僧である。
2-1. 湯治の作法が定式化する
Section titled “2-1. 湯治の作法が定式化する”中世にはすでに湯治の単位が定まっていた。7日間を一廻りと数え、少なくとも三廻り(21日間)は行うべきという認識である。
「湯に入ると気持ちがいい」ではなく、「何日間、どのように入るか」という手続きの規定が生まれている。経験が反復可能な形式に変換されはじめた、ということである。
2-2. 移動する僧が、記録を残す
Section titled “2-2. 移動する僧が、記録を残す”日本で禅宗が広まって以来、各地を行き来する禅僧が湯治を行うようになった。義堂周信の『空華日用工夫略集』などに、その様子が書き残されている。
禅僧が温泉記録の担い手になった理由は構造的である。
- 各地を移動する(比較ができる)
- 漢文の教養があり、日記や詩文を書く習慣がある(記録の形式を持っている)
- 寺院ネットワークを通じて記録が保存・流通する(残る)
「移動する」「書ける」「残せる」の三条件が揃った集団が、たまたま禅僧だった。温泉についての比較知識が中世に蓄積されたのは、この三条件の帰結である。
2-3. 温泉が詩会と社交の場になる
Section titled “2-3. 温泉が詩会と社交の場になる”彼らは湯治の合間に温泉地近辺の名所を歩き、詩会などの催しを開いた。同じく湯治に訪れる公家との交流もあり、温泉が文化的な社交の場として機能する一面が生まれる。
名古屋大学の武穎による研究「五山僧と温泉」は、当時の禅僧が温泉地で湯治しつつ連句活動もよく行っていたことを指摘している。有馬温泉は鎌倉時代にすでに設備が整っており、公家の日記からも湯治の記録がしばしば見られる。
温泉地は、地理的に離れた知識人が一定期間同じ場所に滞在する装置になった。 21日間という湯治の単位は、共同制作に十分な長さでもある。温泉と連句の結びつきは、滞在の形式が生んだものに近い。
2-4. 『温泉行記』と「湯治養生表目」——経験知の文書化
Section titled “2-4. 『温泉行記』と「湯治養生表目」——経験知の文書化”室町時代には、温泉の性質や効能、湯治の適切な行い方が経験則に基づいて理解されはじめる。これも禅僧の湯治記録から読み取れる。
臨済宗の僧侶**瑞渓周鳳(1391-1475)**の『温泉行記』は有馬温泉を訪れた記録である。この文献によって、有馬温泉に「湯治養生表目」と呼ばれる湯治指南書が早くも掲げられていたことが明らかになっている。
温泉地に、その温泉の使い方を書いた掲示物があった。 つまり、
- 経験が蓄積され
- 文章化され
- 現地に掲示されて、来訪者に共有される
という循環が成立していた。近世には同種の指南書が各地の温泉で作られ「湯文」として広まるが、有馬の例はその先駆けである。
現代の温泉施設には、成分・禁忌症・入浴上の注意、加水・加温・循環ろ過・入浴剤の有無が掲示されている(温泉法および平成17年の施行規則改正による)。「温泉地に、その湯の使い方を書いて掲げる」という形式は、室町の湯治養生表目から現在の掲示義務まで、およそ600年続いている。
2-5. 『梅花無尽蔵』——比較と序列化のはじまり
Section titled “2-5. 『梅花無尽蔵』——比較と序列化のはじまり”禅僧による温泉記述は、やがて比較と序列化に至る。
万里集九(1428-没年未詳)の詩文集『梅花無尽蔵』に収められた延徳3年(1491年)の「温湯連句序」に、次の一節がある。
本邦六十余州、毎州霊湯あり。その最たるもの、上野の草津、摂津の有馬、飛騨の湯島の三処あり
草津・有馬・下呂(湯之島)の三か所を最上とした。これが「日本三名泉」の起点である。
タイトルにも注目したい。「温湯連句序」——これは連句の会に付された序文である。三名泉という評価は、詩の営みのなかから生まれた。
江戸時代になると、徳川家康に仕えた儒学者林羅山が自らの詩文集でこの三温泉を「天下の三名泉」と紹介し、評価を追認する。万里集九 → 林羅山 → 日本三名泉という系譜である。
中世の禅僧は各地を移動して湯を比較できた。その比較を漢詩文という形式に載せた。その文章が近世の儒学者に読まれ、引用されることで、個人の評価が公共的な「格付け」に転化した。
なお万里集九は近江に生まれ相国寺で修行したが、応仁の乱で美濃に逃れ、還俗して妻帯した。太田道灌の招きで江戸を訪ねるなど幅広い足跡を残している。動乱によって移動を強いられた人物が、結果として全国規模の比較を可能にしたという点も、記録がどう生まれるかを考えるうえで示唆的である。
草津温泉の湯畑。万里集九『梅花無尽蔵』が「三名泉」の筆頭に挙げた温泉で、自噴湧出量は日本一とされる。撮影: くろふね / 出典: Wikimedia Commons / ライセンス: CC BY-SA 4.0 / 変更なし。
3. 近世——温泉が批評と論争の対象になる
Section titled “3. 近世——温泉が批評と論争の対象になる”近世に入ると、都市部の庶民にまで温泉利用が普及する。同時に、温泉についての「知」の性格が変わる。個々の温泉を案内するものから、温泉一般を論じるものへ。そして、論争の対象へ。
3-1. 前提——庶民化と、案内書の量産
Section titled “3-1. 前提——庶民化と、案内書の量産”身体の疾患を治す目的で湯治する者に加え、転地療養として、あるいは物見遊山を兼ねて出かける者が増えた。江戸時代中期から温泉案内の書物や図版が盛んに出版され、これが普及に拍車をかける。
街道からアクセスの良い箱根では「七湯巡り」が評判を呼んだ。湯本・塔ノ沢・堂ヶ島・宮ノ下・底倉・木賀・芦ノ湯の7か所は互いに近く、一度に巡るのに適していた。実際に七湯を巡って編集された案内書『七湯栞』は、絵図を豊富に含み、往時の景観をビジュアルに伝える。
滞在の形式も変わった。伊勢参りなどの途上で立ち寄る団体客が増え、文化2年(1805年)には「一夜湯治」が事実上公認される。中世に成立した「7日一廻り・三廻り21日」という単位は、ここで崩れる。 21日間の共同滞在から一夜の立ち寄りへ——2-3節で見た「温泉地=知識人の共同滞在装置」という機能も、同時に失われていく。
3-2. 温泉一般を論じる——貝原益軒
Section titled “3-2. 温泉一般を論じる——貝原益軒”それまでは「湯文」のように、特定の温泉について案内するものはあっても、温泉一般を論じる動きはなかった。
本草学の大家**貝原益軒(1630-1714)**は『養生訓』などで、温泉一般の視点に立って入浴作法に言及した。個別の湯の効能ではなく、「温泉に入るとはどういうことか」を論じる枠組みが立ち上がる。
3-3. 検証の要求——後藤艮山と香川修徳
Section titled “3-3. 検証の要求——後藤艮山と香川修徳”医師が温泉を本格的に医療に用い始めたのは江戸時代である。その開祖とされるのが、弟子を200人も抱えた古方医学の大家後藤艮山(1659-1733)。艮山は当時の実証性に乏しい中国医学に危機感を抱き、薬の効能について本当に効くのかどうかの確認作業を求めた。日本の実証医学の先駆け、医学革新運動の旗手といわれる。
「効くと言われている」ことと「効く」ことを区別せよ——この要求が、温泉についての知を次の段階へ押し上げる。
画期となったのが、艮山の弟子である医師**香川修徳(1683-1755)**の『一本堂薬選』続編(1738年)である。修徳は師の研究を継いで湯治を追究し、高温の温泉を特に評価するなど、温泉の特徴とその良し悪しを論じるところまで踏み込んだ。同書で具体的な温泉を名指しで批評したこともあって、その論説は広く世間に影響を与えた。
3-4. 反論の応酬——温泉論争
Section titled “3-4. 反論の応酬——温泉論争”修徳の説は、多くの批判と反論にさらされた。
- 原双桂(1718-1767)『温泉小言』——高温こそ良しとする修徳の説を否定
- 柘植龍洲(1770-1820)『温泉論』——温泉の質を重視し、修徳が下した各温泉の評価を覆そうとした
温泉について、公開の場で説が争われる状態が生まれた。 ここに至って、温泉は学問の対象になったといえる。
学問であることの条件は、正しい答えを持っていることではない。誰かの主張に対して、別の誰かが根拠を挙げて反論できる形式が整っていることである。中世の「湯治養生表目」は掲示され、共有されたが、反論されるものではなかった。近世の温泉論は、反論されうる形で書かれた。
3-5. 枠組みの転換——『舎密開宗』
Section titled “3-5. 枠組みの転換——『舎密開宗』”蘭学が受け容れられると、西洋科学の知識と視点が温泉の分析に用いられるようになる。転機を作ったのは、化学に通じた医師**宇田川榕庵(1798-1846)**による訳書『舎密開宗』(原書はWilliam Henry, An Epitome of Chemistry, 1801)である。
同書において、温泉は種々の成分が含まれた「鉱泉」の一つとして位置づけられた。
これは分類の枠組みそのものの入れ替えである。それまで温泉は「霊泉」であり「薬」であり「湯治の場」だったが、ここで化学的組成によって定義される液体のカテゴリーの中に置き直された。現在の「療養泉10種類」という分類は、この転換の延長線上にある。
4. 近代——分析と行政
Section titled “4. 近代——分析と行政”4-1. ベルツと『日本鉱泉論』
Section titled “4-1. ベルツと『日本鉱泉論』”明治時代、温泉は行政の管理下に置かれる。明治政府は当初、温泉の成分を分析することで湯治の効能を追認する姿勢をとったが、次第に温泉地の衛生状態の維持・改善を通じて保養地として活用する方向へシフトした。
明治9年(1876年)にお雇い外国人として招かれたドイツ人医師**ベルツ(Erwin von Bälz, 1849-1913)**は、衛生行政の整備に労を取るなかで湯治の効果に着目した。ベルツは昔から意識されてきた湯の質や入浴作法を認めると同時に、「温泉をどのような環境にしておくべきか」という点を重んじた。
著書『日本鉱泉論』(1880年)では、各地の温泉に専門医や温泉委員を設置して環境改善に資することなどを提言している。この考えは内務省衛生局編『日本鉱泉誌』にも踏襲された。
ただし提言は実現しなかった。予算等の制約からベルツ自身が期待した通りには実行されず、草津に理想的な療養・保養施設を造る計画も、地元の反対と本人の帰国により果たされていない。
ベルツの関心は「湯の成分」ではなく「湯を取り巻く環境」にあった。 分析の時代にあって、彼は分析だけでは不十分だと考えた。この視点は、後の温泉法における掲示義務——つまり湯そのものではなく湯の扱われ方を問う枠組み——につながっていく。
4-2. 「湯治」から「保養」「観光」へ
Section titled “4-2. 「湯治」から「保養」「観光」へ”交通網の整備とメディアの発達により、人々は温泉地に湯そのもの以上に便利さと楽しさを期待し始めた。温泉地もそれに応え、保養地や観光地としての役割を前面に押し出していく。かつて第一義的には湯治場だった温泉は、その存在意義を据え直した。
ただし湯治文化がすぐに廃れたわけではない。別府では明治初期の港湾整備で大阪・広島・宇和島などとの定期航路が開かれて急速に観光地化する一方、戦後しばらくまで瀬戸内各地から「湯治舟」と呼ばれる小舟が集まっていた。明治45年(1912年)に陸軍病院、大正14年(1925年)に海軍病院が開設され、温泉療養が制度的にも位置づけられている。
農閑期を理由とした湯治は、現在では別府・鉄輪にわずかに残るのみとされる。
行政の管轄も移り変わった。 明治から戦前は警察による「取締命令」(「鉱泉取締規則」など)で、国の管轄は内務省、都道府県は警察。戦後の温泉法制定(1948年)以降は、厚生省 → 環境庁 → 環境省と移っている。
5. 全国の名湯——文献に現れる古湯
Section titled “5. 全国の名湯——文献に現れる古湯”ここまでの流れを踏まえると、「日本三名泉」と「日本三古湯」という二つの括りが、異なる基準で成り立っていることが見えてくる。
日本三名泉——草津・下呂・有馬 2-5節で見た通り、万里集九『梅花無尽蔵』(1491年)が起点で、林羅山が追認した。基準は文人の評価である。
日本三古湯——道後・有馬+白浜(またはいわき湯本) 基準は文献への登場の古さ。『日本書紀』『風土記』に基づいて道後・有馬・白浜とする説と、平安期の『延喜式神名帳』に基づいて白浜の代わりにいわき湯本を挙げる説がある。どちらの説でも道後と有馬は確定で、3つ目が文献によって分かれる。三古湯に別府を含める説もあるが、これは異説の一つとして扱われる。
「古さ」の順位が、どの文献を採用するかで変わる。 1-1節で見た『古事記』の扱いと同じ構造の問題である。
| 温泉地 | 所在 | 主な泉質 | 文献・歴史上の位置づけ |
|---|---|---|---|
| 道後温泉 | 愛媛 | アルカリ性単純温泉 | 三古湯。『古事記』唯一の温泉記事(軽太子の流刑地)、『書紀』の舒明・斉明行幸、『伊予国風土記』逸文の湯の岡の碑文 |
| 有馬温泉 | 兵庫 | 含鉄泉・塩化物泉 | 三名泉と三古湯の両方に入る唯一の温泉。『書紀』に登場。鎌倉期に設備が整い、『温泉行記』『湯治養生表目』の舞台 |
| 白浜温泉 | 和歌山 | 塩化物泉 | 三古湯(一説)。『書紀』の「牟婁温泉/紀温湯」。有間皇子の護送先 |
| 草津温泉 | 群馬 | 酸性泉 | 三名泉筆頭。自噴湧出量が日本一とされる。ベルツが療養施設を構想した地 |
| 下呂温泉 | 岐阜 | アルカリ性単純温泉 | 三名泉(湯之島)。『梅花無尽蔵』に「飛騨の湯島」 |
| 玉造温泉 | 島根 | 硫酸塩泉・塩化物泉 | 『出雲国風土記』に「神湯」。『枕草子』が挙げる三つの湯の一つ |
| 熱海温泉 | 静岡 | 塩化物泉 | 徳川家康が1604年に7日間の湯治。『熱海温泉図彙』に「本朝第一の名湯」 |
| 箱根温泉郷 | 神奈川 | 多様 | 江戸期の「七湯巡り」で庶民に普及。1805年「一夜湯治」公認の舞台 |
| 二日市温泉 | 福岡 | 単純温泉 | 『万葉集』の「次田の温泉」 |
| 湯河原温泉 | 神奈川 | 塩化物泉 | 『万葉集』の「足柄の温泉」 |
| 別府温泉郷 | 大分 | 7種類 | 『豊後国風土記』の赤湯泉・玖倍理湯井。湧出量・源泉数ともに全国最大級 |
このほか、清少納言は『枕草子』で「ななくりの湯(榊原温泉とする説が主流)・ありまの湯・たまつくりの湯」の三つを称賛している。三名泉とも三古湯とも異なる、もう一つの選定である。
名湯の系譜は、少なくとも三つの層の重なりとして見える。
- 古代の記録に載った湯(記録の主体は朝廷と国家)
- 中世〜近世に文人が評価した湯(記録の主体は禅僧と儒学者)
- 近代に鉄道が結んだ湯(記録の主体はメディアと交通事業者)
「有名な温泉」という言葉は、この三つの層のどれを指しているかで意味が変わる。
有馬温泉の共同浴場「金の湯」。三名泉と三古湯の両方に数えられる唯一の温泉で、空気に触れて赤褐色になる「金泉」を引く。撮影: Mass Ave 975 / 出典: Wikimedia Commons / ライセンス: CC BY-SA 3.0 / 変更なし。
6. 現代——制度化、そして文化遺産化へ
Section titled “6. 現代——制度化、そして文化遺産化へ”戦後以降の制度的な節目を年表にまとめる。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1948(昭和23) | 温泉法制定(法律第125号)。国の管轄は厚生省 → 環境庁 → 環境省と移る |
| 1978(昭和53) | 旧泉質名(食塩泉・重曹泉・石膏泉など)から、主要化学成分を記した新泉質名へ改訂 |
| 2004(平成16) | 白骨温泉の入浴剤着色が報道され、温泉偽装問題が社会問題化 |
| 2005(平成17) | 温泉法施行規則改正(5月24日施行)。加水・加温・循環ろ過・入浴剤や消毒の4項目の掲示が義務化 |
| 2006(平成18) | 「別府明礬温泉の湯の花製造技術」が国の重要無形民俗文化財に指定 |
| 2012(平成24) | 「別府の湯けむり・温泉地景観」が国の重要文化的景観に選定 |
| 2014(平成26) | 「鉱泉分析法指針」改訂。療養泉が10種類に整理される |
| 2025(令和7) | 11月28日、文化審議会無形文化遺産部会が「温泉文化」をユネスコ無形文化遺産の提案候補に選定 |
| 2026(令和8) | 3月、ユネスコ事務局に提案書を提出 |
6-1. 2005年の改正が変えたこと
Section titled “6-1. 2005年の改正が変えたこと”白骨温泉では1996年頃から一部源泉の白濁が薄くなり、経営者が入浴剤で着色を始めた。入浴剤の使用自体は当時の温泉法に抵触しなかったが、利用者への説明がまったくなかったことが問題視された。
改正後に掲示が義務づけられたのは、加水・加温・循環ろ過・入浴剤や消毒の4項目である。「本物かどうか」ではなく「何をしているか開示しているか」を問う枠組みへ、規制の焦点が移った。
これは3-4節で見た近世の温泉論争と対応する構造を持っている。「この湯は良い湯か」という論争は、決着がつかない。「この湯に何を加えているか」は、事実として確認できる。論争可能な問いから、検証可能な問いへという移行が、法制度の側でも起きたことになる。
6-2. 「温泉文化」のユネスコ提案
Section titled “6-2. 「温泉文化」のユネスコ提案”「温泉文化」はユネスコ無形文化遺産の提案候補となっている。その定義は、日本温泉協会が設置した有識者検討会の提言によれば「自然の恵みである温泉に浸かり、心と体を癒やす、日本人に根付いている社会的慣習」。
文化庁によれば、日本の新規提案案件の審査は実質2年に1件となっており、「温泉文化」は令和12年(2030年)12月頃に政府間委員会で審議される可能性が高い。
ここには一つの逆説がある。登録による保護が必要とされること自体が、その慣習に衰退や消滅の可能性があることの表明でもある。
まとめ——記録の形式が変わるということ
Section titled “まとめ——記録の形式が変わるということ”このノートでたどったのは、温泉そのものの変化ではない。温泉について書く形式の変化である。
| 時代 | 記録の主体 | 形式 | 温泉は何として書かれたか |
|---|---|---|---|
| 古代 | 朝廷・国家 | 史書・地誌・歌集 | 行幸の記録/土地の特徴/神仙境 |
| 中世 | 禅僧・公家 | 日記・漢詩文・掲示物 | 滞在の場/詩会の舞台/作法の対象 |
| 近世 | 医師・儒学者・出版 | 医書・批評・案内書 | 検証すべき効能/論争の的/観光資源 |
| 近代 | 行政・科学者 | 分析報告・法令 | 化学的組成/衛生管理の対象 |
| 現代 | 国家・国際機関 | 掲示義務・提案書 | 開示すべき情報/保護すべき慣習 |
この表を縦に読むと、いくつかのことが見えてくる。
第一に、記録の主体が変わると、記録される内容も変わる。 朝廷が書けば行幸が残り、禅僧が書けば比較が残り、医師が書けば効能の是非が残る。「文献に残っている」ことは、その時代の誰かが書く動機を持っていたことを意味するにすぎない。『古事記』に温泉がほとんど出てこないのは、温泉がなかったからではない。
第二に、形式は消えずに積み重なる。 室町の「湯治養生表目」は、現代の温泉施設の掲示義務として生きている。近世の温泉批評は、現代の温泉ガイドとして続いている。古い形式は新しい形式に置き換えられるのではなく、下敷きとして残る。
第三に、湯治が学問・詩・禅宗と結びついていた期間は、記録という観点から見れば例外的に生産的だった。 移動する知識人が、21日間という単位で同じ場所に滞在し、比較を漢文の形式に載せて残した。この条件が揃っていた時期に、「三名泉」という枠組みも、「湯文」という形式も生まれている。1805年に一夜湯治が公認され、滞在が短縮されたとき、失われたのは時間だけではなかったのかもしれない。
次に残る問い
Section titled “次に残る問い”- 湯の岡の碑文について、『釈日本紀』以外の伝本を確認していない。愛媛県史の整理をそのまま採っている。
- 五山僧の湯治記録が、どの温泉地にどれだけ残っているかの分布はまだ数えていない。
- 「温泉文化」の提案書本文は未公開で、定義がどこまで書き込まれるかは確認できていない。
主な参照資料
Section titled “主な参照資料”古代の文献
中世・近世
- 武穎「五山僧と温泉」(名古屋大学大学院人文学研究科)
- nippon.com「温泉は日本の文化である」
- 一次文献: 瑞渓周鳳『温泉行記』、義堂周信『空華日用工夫略集』、万里集九『梅花無尽蔵』「温湯連句序」、香川修徳『一本堂薬選』続編、原双桂『温泉小言』、柘植龍洲『温泉論』、貝原益軒『養生訓』、宇田川榕庵訳『舎密開宗』(いずれも本文の記述は上記の解説資料を経由して確認したもの)
近代・法制度
- 参議院「温泉資源の保護対策と成分等の情報提供方法の見直し」(立法と調査、2007年)
- 布山裕一「温泉は誰のものか」(日本温泉協会)
現代の動向
このノートは文献に現れた温泉記述の変遷を追ったものであり、各温泉地の効能や開湯年代を保証するものではない。とくに開湯伝説の類は、本文中で述べた通り史実と伝承の区別を要する。
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